「井浦新さん出てる!あ、東出さんも出るのか!これは観に行かねば…」
そんなミーハーな気持ちで観た映画でしたが作品を通して忘れられない、心に刻まれる137分を過ごすことになりました。
※以下はネタバレも出てくると思うので、上の予告版を観て本編が気になった方はぜひ劇場に先に足を運んでみてください。
それぞれが生まれながらに抱える人生
劇中では一つの村を中心に話が展開されますが、戦争に対して、朝鮮の方や差別された部落の方に対して、結婚に対して、生き方に対して・・・
皆の思いは食い違います。しかもそれは自分で選べるものではなかったりするのです。それがまた苦しく、自分たちではどうしようもないことを争う場面が多々あって。
まるでその争いの場にいる一人の村民になったかのように、思わず息を止めて観ていました。
不安、焦燥、遺恨、欺瞞、憎悪
負の感情がいったん始まると、それは断ち切らない限りずっと付いて回る。
些細なことがいとも簡単に感情の引き金になってしまう。
もしそういう状況に陥ったとき、私たちはどうすべきなんでしょう。どうしても赦すことができなかったとき、その想いを抱えながら生きていくことはできるんでしょうか。
分からない。
まだ自分は赦したことがないから分からないけれど、いつかそんなときが来てしまったとき、この作品を少しでも頭に浮かべることができたなら… そう思いました。
鳴り響く、和太鼓の音
上に載せた予告編でも鳴っている和太鼓のサントラですが、本編でも重要なシーンで流れてきます。
この和太鼓の音が、映像と相まってかなり精神にきます。
自分自身和太鼓をやったことがあり、私の場合は和太鼓の音を聴くと力が湧くというか血が騒ぐ感じがするのですが、村民たちが暴行、殺害を行っていたとき、その頭の中にもこんな音が鳴り響いていたんじゃないかなと。。。
「コイツらは私の大事な人を殺した。赦さないーーー。」
「憎き朝鮮人を。。。」
「いまこれだけ人がいれば、殺れる」
「この村は私が守らねばーーー。」
多くの人が集い、まとまり集団を作って、群れる。そして突然そこに現れた異物。
ーーー排除せねば。
そんなことで頭がいっぱいで、どこからなのか分からない、湧き上がるような何かを自分の中に感じたんじゃなかろうか。
それを上手く和太鼓の音が表していたなと。
あまりに映像との相乗効果が強すぎて、私はそのシーンは数分間直視できなかったです。動悸もしばらく止みませんでした。
そこに正義も正解もないとき
この世界で争いが起きることは、その大体が確かな正義や正解が無かったり人によったりするものですよね。
この作品の話もそうで、そういう答えのないもので起こってしまった事件を見るのは本当になんとも言えない感情になります。
悲しさとも怒りともやるせなさとも違っていて、私は感情がぐちゃぐちゃのまま劇場を出ました。悲しくて泣きながら劇場を出たことはあってもあの時の感情は映画では初めてで、今でも忘れることができません。
私たちはどんな歴史を知り学ぶべきなのか
私はこの映画を観るまで、福田村事件については全く知りませんでした。
朝鮮合併の歴史も学生の時に学びましたが、正直今回の映画を観るまであまり覚えていませんでした。その一方で第二次世界大戦の原爆投下はやはり覚えていて。
身近にあるいじめなどと同じように、した側は覚えておらずされた側は忘れない、ということなのかもしれないと思いました。
それらの歴史上の事実がどうであれ、私は自分自身が覚えていなかったことや、覚えていないことに対して無自覚であったことを今回恐ろしく感じました。気を付けているつもりでも、自分でも気付いてこなかった物事の一面があるのではないかと。
違う者同士が同じ立場に立ち物事を考えることの難しさを痛感する出来事でした。
最後に
この事件で生き残った行商団たちが多くを語ることはなかったと最後にありましたが、やはり語らなかったのではなく語れなかったのだろうと思います。
当人たちが口を閉ざさるを得なかった事を、今私たちが作品を通して知ることができたこと。それだけでも意味があるんじゃないかなと思っています。