映画というモノが好きなわけじゃない
映画という時間が好きだ
ということに気付いてしまった。できれば気付きたくなかったなぁ
それは、映画が私にとっての心の避難場所だったからだと思う。
現実逃避していることを悟られない、そして自分にも悟らせない、気付かせないための隠れ蓑。
それが私にとっての映画だったんだよーー。ああもう。
しかもそれは多分映画だけじゃない。
私は逃避先として音楽やエンタメやそういったものを選んでる。
そんな形の「好き」は認められるんだろうか。
いや別に認められなくたっていいじゃないかと思っていたんだけれど、社会に出ようとすると建前でそういった消極的な理由を言ったら、積極的な理由を持ったキラキラした人たちに負けてしまうんだって。
比較するもんじゃないはずなのに、同じ土俵に立つとやはりちょっとショボくみえちゃうんだって。
私の想いも嘘じゃないのに。というかそういう人もたくさんいるって段々分かってきたんだけど。
でももう今は、そこに立つためならば幾らでもキラキラしてやろうじゃないかと思っている。泥臭いのが求められるならそうなるし、とにかく今の私に選択肢はないのだ。
しかも言っちゃえば、別にこうやって毒づく必要はないのに不平や不満といったネガティブな想いを持っていることに自惚れているのだ。
ただ、今の自分はそれが自覚できただけまだマシだろうと最近は思うことにした。
映画館で、無数の均一に並んだシアターチェアの間を通り、やっと見つけた自分の2時間だけの居場所に腰掛け、今かいまかと本編を待ちながらも宣伝広告で流れる映画にも鑑賞予定の目星をつけて、遂に来たそのとき、ゆっくりと光がしぼられていって暗闇にのまれた瞬間が好きだ。
醜い自分の想いも感情も振る舞いも見た目も、全部ぜんぶ、大きなスクリーンや劇場の闇に包まれてしまって見えなくなって気にならなくなって、目の先にあるものだけを見る。考える。
うん。ちゃんとこの時間が好きだ。
大体の私の場合、書いてみるとそれへの気持ちがあらわになる。
だから「あ、自分が思ってるよりも気持ちがないんだな」と気付くこともあるし、その反対もある。
だから自分の心に留めておけるならなーと思うのだけれど、もうそれには飽きてきているのでやっぱり書いた。
言いたかったこと:これからも映画観ます。
というかさ、私は東宝シネマズをよく使うんだけどそのロゴの意味、知ってた?
なんか思ったより壮大なロゴだったよ