原作者の上田誠が言っているようにここ「四畳半界隈」は非常に入り組んでいる。
なにがって???
長い時空と多くのメディアたちと畳の世界が。である。
小言を言うよ
四畳半神話大系、皆さんはご存知だろうか。
私は今回小説を初めて読んだのだが、はじめに一つだけ関係者に小言を言わせてほしい。というのもこの作品には、まるで兄弟やいとこみたいな作品が多く存在するのだ。
一応挙げておくと・・・
小説の四畳半神話大系があって、
劇団の演目のサマータイムマシン・ブルースがあって、
実写映画のサマータイムマシン・ブルースがあって、
TVアニメの四畳半神話大系があって、
アニメ映画の四畳半タイムマシーンブルースがある。
とまぁこんな感じでそもそもの原作以外にも、アニメ化、映画化、更には融合(!?)と、何が何なのか分からなくなるほど派生作品が多いのである。派生作品たちをまとめました!!みたいなページサイトがあってもおかしくないレベルだ。(というより欲しい。)
という感じで前置きが長くなり過ぎたので、小説の感想はシンプルにいこう。
四畳半神話大系 あらすじ
舞台は京都市。 主人公は「私」。 京都大学の3回生である。 その「私」が、どのサークルに所属するかによって、「私」の学生生活、更には「私」の周囲の人にまで起こる変化が描かれている。
同情からくる惨めさと憐み、慈しみ
まずそもそも大学という場で、友達は少なく、恋人もおらず、勉学に励むわけでもなく、みたいな冴えないキャンパスライフを送ってきた私は、同じく冴えないキャンパスライフを送っている、この四畳半神話大系の主人公である【私】という存在をどうしても自分と重ねずにはいられなかった。
キャンパスライフの過ごし方以外にも、目の前のその友人に執着していないように見せても、その友人は自分と違って居場所がたくさんある人間なので結局寂しさを感じていたり、あと石橋を叩いて壊すような思考の仕方だったり。
似ている。
話を読み進めながら、自分を見ているようで共感というより同情のような、いやもはや同情すら超えて同類としての慈しみみたいなものと開き直ったような気分とになっていた。
”可能性”は無限大だけど無限定には使わない
可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。
我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である。
これは私がこの作品で最も印象に残った言葉。
でも結局これが言ってることは
『今そこに立ってるおまえという存在は、今日これまでという、時間と物事の積み重なりが生んだものでしかない。』ってことでしかなくて、例えば「あなたは誰ですか。どんな人ですか。」と訊かれて未来のことだけで自己紹介する人はいねーだろうよ。
みたいなことでしかないと思う。
つまりそんなに難しいことを言っているわけではないと思うが、それを自己啓発本とかの中で使われるのと、小説の日常の中でその空気感で語られるのとでは全然納得度が違うなと。
というのも、私は日頃から良い方の可能性も悪い方の可能性も考えすぎて動けなくなってしまう人だった。(今もそうだけど)
ただそれよりもっと、何かを決めて前に進めば、何かを捨てたり出来ないことの白黒がつくからこそ「可能性」に縋り付いていたんだ、と気付いたのはここ1,2年の話。
とまぁそんなことがあったので、この
「何かをやったり選んだりしてダメだった、という経験・現実からくる不可能性こそが自分を自分たらしめる。」
≒『不可能は自分を否定するものではなく、ただ「それが不可能である」と規定されるだけ』
という言葉は共感したし、読んでからしばらくも反芻させて噛み締めていたくらい染みた。
じゃあどんな文脈でこの言葉が語られるのか、というのはぜひ自分で読んでほしい。
次はアニメだぜ
この『小説版 四畳半神話大系』や『実写映画 サマータイムマシン・ブルース』を今までに見てきてアニメがとてつもなく気になっているので、私は次はアニメを観ます。
が、関連作品のどれから見るかは自分次第。初めの方に書いた関連作品たちは特に時系列での前後関係もない(と思う)ので、興味が湧いた順番に見られるのも楽しい。
四畳半の世界の「私」のように、どの作品から見始めても結果は同じ。なのかもしれない。